ふう
ひと息つきたい
このなんとも言えない感情をどうしたら
どうしたら表せるだろう
今日、「春琴」を観てきました
この日のために友だちから小説「春琴抄」を郵送してもらい予習
(結局読み終える前に当日を迎えてしまったけれども)
とにかく、久しぶりの舞台で、楽しみにしていたの
すばらしかった
最後、涙が出そうで
物語が、とかなんかそんなんじゃなく
なんだろう
これは初めての感覚
なんだろう
舞台はとても簡素で、出てくる小道具も本当に必要なだけ。印象的だったのは竹竿の使われ方。時には部屋に、時には松に、屋根に、襖に、そしてそれ自体が楽器として音響の機能も果たしていたり。谷崎潤一郎に扮した者が、自由自在にその間取りを変え、ただの棒なのだけど、それが三次元に組み合わさった時、箱に見え、部屋に見えた。壁などないのにそれは見事な壁で。日本の昔ながらの家屋の印象にぴったりの、質素な壁だった。畳もすばらしかった。部屋から廊下へと、つなぎ方次第ですばやく空間を作り出す。そして人形遣い。人形の春琴、人形から人間へと変化する場面(人形を初めて手放したとき、春琴の人間らしい感情が表に出たときだったのかもしれな い)、その手前の人形なのか人間なのかとても曖昧で見極めがつきづらかった場面(決して明るくはない舞台で、物語の鍵「はっきりしない」がここでも関係し ていたのかも)。他に人そのものを墓とするところ、その絶妙な位置関係、「おぼろげな顔写真」の表現手法など挙げたらきりはない。
なによりもわたしが驚いたのは最後の演出。そこにすべてが集約されている。ナレーターにフォーカスすることで再び現実に戻し、しばらく後、一気に背面の壁が開き、真白い光が一面に現れる。それまでろうそく一本や必要最低限の灯りのみの世界だったので、その光はあまりにも眩しく、目が眩むほどだった。思わず目を逸らしたくなるような。東京なのか京都なのか、大都会の喧噪の音とともにそれは現れ、春琴たちを逆光で照らす。もちろん確認できるのは彼らの影かたちのみで、細部はわからない。シルエットだけ。これは暗に、こんなにも明るいのに、こんなにも明るさに不自由しない現代なのに、見えない、見えているつもりになっていないか?という問いだったのかもしれない。ちゃんと本質を見ているか?ほら、見えないだろう?という挑戦だったのかもしれない。
そして再び壁が下りるとき、春琴の三味線がつぶされる。知らず知らずにたくさんのものを壊し、捨て、生き残ることを困難にした現代に対する、わたしに対する何かメッセージな気がした。
すばらしかった
今なんとなくわかった気がする。ライオンキングやSTOMP(わたしがかつて見た舞台、西洋のもの)と違ったのは、その場でぐっとくるというよりも、徐々に徐々に、わずかにわずかに魅せられていく、突発的で瞬発的ではないけれど、なんていうのか
そう
奥行きを感じた
時折出てくる「陰翳礼讃」からの引用
曖昧なものに美を感じ独自の文化を持っていたかつての日本
西洋文化の恩沢を儚くも受け、日本人はいろんなものに鈍感になった
谷崎は云う
「けだし近代の都会人はほんとうの夜と云うものを知らない。次第に闇の領分は駆逐せられて、人々は皆夜の暗黒と云うものを忘れてしまっている。夜の暗さを忘れていたのだ」と
また「もし東洋に西洋とは全然別箇の、独自の科学文明が発達していたならば、どんなにわれわれの社会の有様が今日とは違ったものになっていたであろうか」とも
谷崎の頃にすでにそうであったならば、もう今の現代で何を嘆いてももはや手遅れなような気もする。けれどもその谷崎の本が、今でも多くの日本人を魅了し、はたまた異国の人にまで共感を得ているということから見ても、皆あの頃に(自分の幼き頃いくつかの不便が生じていた頃に)戻りたいと思っているのだろう。わたしもすでにもう現代っ子と呼ばれる世代だけれども、あの頃、団地で家族一緒に川の字で寝ていた頃に、よく水もれし、停電し、電話は黒電話で、金魚のくさいにおいと、破れた襖と、隠し事なんて一切できそうにもないあの狭い空間に、時折戻りたい、と 思う。一軒家に憧れて、友だちの家に廊下があるのがうらやましくて、わがままを言ったこともあったと思う。けれど今思うのは、何か温かい感情。少し切なさも混じる。ああもったいないことをした、と。でもそれは避けられない変化であったし、過ぎてしまったことを今更後悔しても遅い。今の暮らしを非難するのではなく、ただ少し、不自由に慣れてもいいと思う。便利になりすぎた。特に日本は。イギリスに住んでみて、とても不便が多いことに最初はストレスを感じた。勝手が違うのはもちろんだけれど、シャワーの水量は少ないし、深夜に開いているコンビニなんてない。便利に浸かり過ぎた結果だった。
すべてを清算するなんて、地球が滅びない限り無理だけれど、少しくらいの不自由を受け入れてもいい時期だと思う。便利だと感じているかもしれないけれど、それは逆に損をしているのかもしれない。明るすぎることが、便利すぎることが、あの懐かしい日々からわたしたちを遠ざける。この舞台を、少しでも多くの人に、多くの日本人に観てほしいと思う。心から。
そんなわたしは帰って早速、衝動的にチケットを予約してしまいました。
今度は一週間後。ロンドン公演最終日。また違った印象を受けるのかもしれない。とても楽しみです。
「春琴」
演出 サイモン・マクバーニー
美術 松井るみ/マーラ・ヘンゼル
照明 ポール・アンダーソン
音響 ガレス・フライ
映像 フィン・ロス
衣裳 クリスティーナ・カニングハム
出演 深津絵里、チョウソンハ、麻生花帆、本條秀太郎(三味線)、他
演出家サイモン・マクバーニー率いるコンプリシテと世田谷パブリックシアターの共同制作で放つ新作『春琴』。谷崎潤一郎の「春琴抄」「陰翳礼讃」をもとに、新たな谷崎ワールド、日本の姿に迫る。
追:今日立ち寄ったスーパーに猫さんが二匹もいました
常連さん?看板娘?
最近ネコ率が高いなあー笑
こっち見てるね
I saw a stage called "Shun-kin" and it is based on the writings of Junichiro Tanizaki ("Shunkinsyo"&"In Praise of Shadows" both in 1933). It is hard to me to explain how much that was great. Ive never seen before like that. I was very glad I was japanese and a little sad at the same time when thinking of the culture of Japan that has lost up to now. I mean, I neither wanna talk down western culture nor do down our now lifestyle. Just, well, if our original culture would develop on original way, I could see the world different from now.
Tanizaki said that "the city dweller of modern ages doesn't know the one called a true night. We have forgot the darkness without any notice". This stage's theme is maybe a modern too bright light obscures the essence of the thing. It might be a kinda question like "Are you really looking ?" or an irony like "See, will you not see it?".
We japanese should see this stage"Shun-kin" and feel something.
Im gonna see it again next weekend!
I will feel something different. I cant wait!
"Shun-kin"
Directed by Simon McBurney
Design Rumi Matsui/Merle Hensel
Lighting Paul Anderson
Sound Gareth Fly
Projection Finn Ross
Costume Christima Cunningham
Cast Eri Fukatsu, Songha Cho, Kaho Aso, Hidetoro Honjo, and others
***There were two cat where I called in a supermarket today. So cute♡
春琴<Shun-kin>
Saturday, 14 February 2009 | Posted by NOA at 10:32 | category: animal, art, stage
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