朽ちゆくものと生きるもの

Saturday 20 August 2011 | |






今年の夏は清々しくそれでいてどこか寂しくそれでも多くの発見のある夏だった

新潟県魚沼市須原

そこはかつて守門村と呼ばれ、市営の須原スキー場の麓にある小さな集落
そのスキー場も、今年で民営のメドが立たないと閉鎖の危機にあるという

小さい頃から夏や冬にはおばあちゃんを訪ねて遊びにいった
自分ひとりでもふと思い立って鈍行列車乗り継いで行ったこともある

少なくともわたしの夏の思い出といえば須原や松川に向かうあの一面の田んぼ道が思い浮かび
冬といえば裏の畑に積もった雪で毎年かまくらをつくるのが楽しみでしょうがなかった

そこにはいつもおじいちゃんがいて、おばあちゃんがいて
わたしをどんなときでも歓迎してくれて

でも今年はおじいちゃんは病院 
おばあちゃんはあの広い家にたったひとりでいた

おばあちゃんが「あそこの家も空き家だよ」と教えてくれるたび
葬式の花輪が出ているのを車から見て「あれは誰々、あそこはどこそこ」とつぶやくたび
わたしはなんて答えていいかわからんくて
ただただ無意味な相槌をうってた

別にばあちゃんは死を悲観してるわけでも、
人のだんだんいなくなってく村で元気をなくしてるわけでもない
ないけれど、それでも昔に比べたらまた少し小さくなった気がした
おじいちゃんが入院しているせいかもしれない

須原の村は素晴らしい

唐突だけれど本当にそうなのだ
お酒や食べ物はもちろんおいしくて
水道水だってそのままでおいしいし
小さいけど祭りだってあって
生活する上で必要なものは最低限揃うし
只見線っていう超ローカル線の車両もたまらなくかわいい
居酒屋だってあってラーメンもそばもおいしいのが食べれるし
冬になればスキーだってできる(今のところは)

8月15日には終戦記念日の黙祷のサイレンがなるし
去年までは2日間あった守門神社の夏祭りの中止が話題になった時だって
神主さまの「祭りはひとのためにやるんじゃない。神様を拝むためにやるんだ。
だから人間の都合で中止にしたりしてはいけないんだ。」って一声で一日だけだけど
開催することになったし、神輿も出たし、餅まきもしたし
そういうあたたかい場所なんだ

本当に 本当に良い場所なんだ

わたしには何ができるだろう
できることはたくさんある やれることはたくさんあるのに
これをこうして、あれをああしたらもっと人が呼べるのに

でも多くの観光事業がそうであるように、人を呼ぶために犠牲にするものだって
きっと出てくるはずなんだ 最悪やっぱりやらなきゃ良かったとか前のままがいいとか
そういうことになる危険性だってある でもなにかやらないと始まることもなく
でも自分はきっとその失敗がこわくて そういったなんやかやまで受け入れる覚悟というか
そういったものがまだまだふわふわのへにゃへにゃで

要するに自分にはできないと思っている

途中で投げ出すと思ってる

だから

いつも空き家になってく家を見つめながら

おじいちゃんがいなくなって草ぼうぼうになった畑を見たまま

何もせずに

また東京へ帰ってくる

帰ってきてしまった

時間はあるようでなく ないようであり またあるようでないのに



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